救護施設という存在をご存知だろうか。
きっと関わりを持っている人以外、世間ではほとんど知られていない福祉施設だと思う。
滋賀県日野町にあるひのたに園がそうだ。
救護施設は滋賀県内に5箇所存在し、全国では186箇所もあるという。
さてその救護施設。どんな施設かというと、取材した僕も説明するのが難しい。
ここの職員である北川副園長は、『究極の福祉施設』という言葉で表現した。
障がいをくっきり分けた施設ではなく、お年寄りの専門施設でもない。
障がい者であっても、健常者であっても、入所はできるという。ということは、入所者とは、一体どんな人たちなのだろうか?
聞いてみると、家族と疎遠になってしまった人や、障がいを持っているが、面倒を見てもらえる身内がいないとか、虐待で自宅に戻れないとか、生活保護を受けていて、どこにも帰る場所がないとか、発達障害に気がつき、社会になじめないとか、リストラにあって身動きができなくなったなど、次の拠点をどこに置いていいか、先が見えにくい人たちを受け入れる施設だという。
とても人間くさく、気になる人が大勢いそうで、逢いたいという気持ちが高ぶった。
僕は全国の精神科病棟に取材に出かけているのだが、歴史の長い病院ほど、長期入院の患者さんが目立つ。ありえないと思ってしまうが、入院期間が50年や60年という患者さんだって存在する。これは、日本の精神科病棟の現実だ。
それを見てきているから、今回の救護施設の存在は余計に頭の中で絡み合い、一瞬、違いがわからなくなってしまうことがある。
僕の中では、救護施設は、一時のシェルターであり、施設であるということ。
精神科病棟は、病を治そうとする病院であるということ。
精神科病棟もそうだが、救護施設はそれ以上に知らない人が多いと思う。
きっと救護施設と精神科病棟は、違いこそあるが、大きな同じ枠内に分類されるであろう。
救護施設は、一時のシェルターと書いたが、実は現実はそうではないらしい。
次の行き場が難しく、結局、何十年と住処になっている人がいる。
「どうしたらいいのか。本当に難しいですよ。
この施設を卒業していくために、慣れた暮らしを変える。それが、その人にとって幸せなのか、辛いことなのか、長期滞在を許してきてしまった、ひのたに園の責任でもあるでしょうね」と北川副園長が語る。精神科病棟の抱える悩みと同じだったことに驚いた。
福祉の業界には通過施設という専門用語がある。ひのたに園もその一つだ。
あくまでも長期滞在ではなく、次に進むための踏み台という存在でなければならないというのは、ひしひしと伝わってくるが、現実は難しいという。
時代の流れも変わり、20年前なら、健常者はほとんどいなかったという。障害者が9割以上で、健常者と呼ばれる人は僅かだった。しかし今は、虐待や経済難民など、社会問題と並行して、ひのたに園を利用する人たちの様相が変わってきているという。
その時代に対応した柔軟な考えがないと、次々と難題が押し寄せてくるであろう。しかし新しい難題に向き合いすぎると、過去の人たちを置き去りにしてしまうかもしれない。
その時代の『名残』と呼ばれる人たちが、残ってしまうことも考えられる。
専門性の高い施設とは違う、懐の大きいひのたに園は、それなりの難しさがあるということを今回の取材で感じた。
世の中のグレーゾーンで生きる人たち。
簡単に福祉の枠に当てはまらない人も多くいることを僕たちは忘れてはならない。それくらい人は、100人いたら100種の色とりどりのカラーを持ち合わせているわけだ。
新しく建て替えられた食堂。とても明るく、広い贅沢空間だ。
みんなが暮らしている部屋は、古い建物のままだが、お年寄りには落ち着そうな昭和な雰囲気が漂う。
ベットの部屋もあるが、畳敷きの和室もある。僕は和室の方が気に入った。
部屋で休んでいる人も多いが、みんなが集まって話をしている廊下はにぎやかだ。
長椅子に男性、女性が別れて座り、きっと席順も暗黙の了解で決まっているのだろう。
「あ?暇だ。あなた誰? 今日ここに来たの?」
みんな退屈だから、僕がアプローチしなくても、どんどん話かけてくれる愛想のいい人が多いように思えた。
「1日、何やって過ごしているのですか?」
「なんもすることなんてないよ!出掛ければ、お金がかかるし、用事もないしね。ここは、本当にありがたいところだけど、ずっといると食っちゃ寝ての暮らしから脱出できなくなるね」
「部屋見ていいですか?」と聞くと、「ああいいよ!」と、すかさず僕を招いてくれた。
「ここに来る前までは、きちんと正社員で働いていたんだよな。でもさ、リストラにあって。
一人一人課長室に呼ばれてさ、会社をやめてくれ!って頭下げられて、マジで焦ったよ。
路頭に迷うしかなかった。退職金なんてすぐに使い切ってしまうし、友人に生活保護を受給したらどうだって言われて、この世界に迷い込んだんだ。この暮らしをやめて、早く働きたいよ」と部屋を案内してくれた男性が気さくに話してくれた。
もう一人の男性に話を聞いた。
「俺はさ、飲酒運転で事故をやってしまってさ、それから転落人生さ!
次の仕事を探して、頑張ってみたけれど、給料が安くてやめちゃってさ、それから行くところがなくなって、1週間も飲まず食わずが続き、ここにたどり着いたってわけさ!」
子供の時からずっと、施設という場所で暮らしてきている女性もいる。
知的障害を持っているその女性は、僕の顔を見るなり、手を繋いでくれる。それはそれは優しいそうな温厚な人で愛らしい。
そんな状況で暮らしてきた女性が、ひのたに園を出て、自立を目標に、最大限の福祉サービス駆使し利用したとして、果たして幸せな暮らしに繋がっていくのか、選択肢が難しい。
長期で施設や病院にいることを、『抱え込み』と表現する者もいる。しかし福祉に従事しているスタッフの人たちは、日頃そのことを考え続け今が結果としてある。
このまま、朝昼晩の飯の心配もなく、慣れたスタッフや周りの友達に囲まれて暮らしていける方が、幸せなのではないかと思うことも一つの意見だ。
永遠と続きそうな終わりなき福祉のテーマは、互いに幸せであれ!という方向にだけは進んでいる。そこに行き着くまでの過程が、ひのたに園という場所なのであろう。
地域に暮らす僕たちの身近な事として、脳裏に焼き付けておくべき課題の一つだと思った。
『究極の福祉サービス』という意味がわかったような、わからないような、日々葛藤している場所だった。
園長の西村利夫さんに、お話を聞いて、専門分野だからこその悩みを聞かせてもらった。
ひのたに園は基本的に65歳までが、ここで暮らしていける。しかし、それをすぎると養護老人ホームなどを紹介し、引越しを促す。
しかしそれには要介護認定というものが必要になってくる。では元気な人はどうなるか?という単純な難題の壁に当たる。
高齢者の地域移行の背景には、自治体の財政圧迫という、僕たちの目に見えない問題がさらに加わってくる。
ひのたに園に暮らしている大半が、生活保護受給者である。その内訳は、国が4分の3、県と市町村が4分の1ずつ支払い支えている。
ということは、生まれ故郷に帰ってくださると、財政の分散化で、自治体の負担が少しは小さくなるが、疎遠になっている家庭が多いだけに、簡単には帰れない。日野町だけでは、負担が大きすぎる。ということでの地域移行の難しさがさらなる問題として残る。
それが通過施設になりきれない問題の一つだということだ。
昭和45年に開園して以来、ずっと暮らしている人もいる。
福祉同士の連携以外に、地域連携をその中に参加させていく。きっとこれからはそういう時代がやってくると思いたい。
ひのたに園は、僕にとってとても居心地のいい場所だった。人が人を支え、弱いもの同士、手を取りあう。その光景が優しさで満ちているのだ。
ツバメが見たことないほど、巣を作っている。それが象徴するように、ここでは緩やかな安心できる時間が流れているに違いない。
きっと優しすぎる人たちが、ここに集まってきている。ここの維持、管理、そしてそれ以外の暮らしを支えているスタッフの人たちの仕事を超えた関わりに頭がさがる想いだった。